やさしい草津の歴史ものがたり

 去る1月19日(土)より4回にわたって、
中世(1400年代)から江戸時代(1800年代)に至る草津の
移り変わりについての歴史講座が
草津公民館で行われた。
講師は郷土史家の今田三哲先生で豊富な見識と熱のこもった語り口
は受講生に大変好評で、定員をはるかにオーバーする盛況だった。


[1回目 草津城と草津]1月19日
 中世では、今の高須、古江、草津、山田、田方と井口を含めた地域が
「草津」といわれていて、厳島神社の領地だった。
この「草津」の地名の由来は、港が発達していたことで、草々(いろいろ)
の津(港)から来たものだという説がある。
その草津の港を見下ろす小高い山に「草津城」が築かれていて、初代
城主は羽仁(はに)氏であったが、毛利元就と陶隆房の厳島の合戦で
陶方についたことで城主を失う。
その後、毛利の重臣児玉就方が草津城主となり、以降児玉家が城主
として継いでいく。
なお、その頃(1570年代)港を持たなかった三次藩が毛利元就より
「忠海」と「草津」を領として預る。従ってその頃の「草津」とは、
港の周りの一画を指して呼ぶようになった。

左が行者山、右の城山は今造成が進み削られている


[2回目 西国街道]2月2日
 徳川幕府は支配を強めるため、江戸を中心に主な街道(五つの主な街道、
東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道)と幾つかの脇街道を整えた。
西国街道は脇街道の一つで大阪と大里(今の門司区)を結ぶ街道だった
(道幅2間半、約4. 5メートルとなっていた)。
街道沿いには里程を知るため、「一里塚」や「松並木」が整備された。
広島藩の道路原点は城下大手町にあった(今の元安橋の東詰めにある)。
現在、高須、古江、草津、井口を通っている旧国道のうち、一部にその
西国街道の名残りを残しているところがうかがえる。
「一里塚」は(下り)では、高須(古江村)、峠上(井口村)、佐方(佐方村)、
専念寺脇(宮内村)に残っている。
西国街道を象徴する「松並木」は己斐村105本、古江村327本、
草津村67本、井口村78本と記録に残っているが、
現在はほとんどなくなっている。

広島藩絵師 岡岷山著「都志見往来日記」寛政9年(1797年)より写す

 草津城山と行者山の間に西国街道が通っていたことがうかがえる。
潮が引いた時は山の南側を通ることが出来たともいわれている。
この西国街道は井口村へ入ると、望月山に遮られていたので、その険しい山の
まん中に道を通し、山越えで西に延びていたとのこと。
しかし、今では宅地開発が進み、鈴が峰へ続く山脈は切断された様相となっている。


[3回目 草津の産業]2月16日
 江戸時代草津を代表する産業といえば「牡蠣(かき)」
生産を中心とした漁業だった。
しかし、草津の浦(港)は干潟が多く、他国への往来交易の船は皆、
井口村の沖へ繋いだといわれる。
天文年間に草津で発明された養蠣法で「草津の牡蠣」は上方でも有名になり、
冬の時節になると毎月牡蠣船団を仕立てて、大阪へ出かけていた。
延宝年間(1673〜1680)より冬の季節は、大阪の川筋では広島(草津)の
牡蠣舟がにぎわいを見せ、今でもその名残りをとどめている。

 牡蠣と並んでこの時代名を馳せたのが「大石餅」で、
文成年間(今から180年くらい前)西国街道のほとりで
播磨屋惣衛門という人が餅屋を始めた。
そして店の近くに大石があったことで、それを名にとり、「大石餅」と名付けた。
餅米は豊後(大分県)、小豆は肥後(熊本県)から取り寄せるなど、
味にこだわったこともあり、「大石餅」のネーミングが「おいしい餅」のひびきを
持っているということで、たいそう評判になり、
西国街道を通る人、草津の梅林に梅を見に来る人、宮島へ参拝する人、
近来では己斐駅での売れ行きも上々だった。
しかし、世の移り変わりで売れ行きも下がり、最近店をたたまれたことは
草津に住むものとしては一抹の淋しさもある。


[4回目 現地探訪とまとめ]3月2日
 講座の最終回は草津の町めぐりだった。
すっかり春になった様な陽気に恵まれ、慈光寺を始めに、次々と神社、
仏閣をめぐり、途中代々受け継がれている山口酒店に寄り、
ご主人より当時の町の様子を伺い、その時代の
暮らし振りの一端も垣間見た。


 これまでに「神社、仏閣めぐり」「草津のまちめぐり」と参加し、
「草津のまちを愛する会」の皆さんからの説明で
いろいろとあらかたのイメージは頭に入っていたものの、
今回、郷土史を研究されている今田先生の調査の行き届いた説明で、
これまでに聞かれなっかった別の角度からの「草津」も知ることが出来、
たいへん有意義だった。

(報告及びスケッチ:草津梅が台 平山文俊)

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